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【本・映画】望遠ニッポン見聞録 ヤマザキマリ

世界を飛び回る、世界一幸福な人たち。

巨大化するおっぱいMANGA。

ぽっとんの闇が生んだ、世界最高峰トイレ文化。

アイデンティティなんていらない日本の国酒、ビール。

厳かに行われる俄か結婚式の妙。

子供の物欲をあおりまくるメディアに注意せよ。

同化しようとするカメレオンたちのストレス。

信頼できるのは、女好きより、猫好き人間。

ナチュラルに着飾れない、みすぼらしい東洋人の悲哀。

伊達男は伊太利亜にはどこ探してもおらず。〔ほか〕

望遠ニッポン見聞録 (幻冬舎文庫) (Japanese Edition) by ヤマザキマリ

「日本だけが世界じゃないから

日本のビールの味は蒸気機関車を新幹線に進化させたり、洋式トイレをウォシュレットに進化させたりといったような、海外で発生した文化をそっくりそのまま自分達の中に取り込むだけでなく、さらに改良を重ねて磨きを掛けるという、日本人ワザの一つとも言えるだろう。

日本ではどんな食事の場でも取りあえず注文されるビールだが、イタリア人達はご飯の前に自分の国のもの以外の酒を飲むなんて考えられないらしい。

自分の国で栽培された葡萄のワインだけしか基本的には信用できないらしく、イタリア人がフランスワインを飲んだりポルトガル人がイタリアワインを飲むということは日常的には滅多にない。

イタリアの夫の実家の冷蔵庫には私が2002年にプレゼントした「さつま芋焼酎」がそのまま突っ込まれたままになっている。ヨーロッパの多くの家では得体の知れない他国の酒はそのように非情な扱いを受ける可能性がある。

酒だろうと食事だろうと、どこの国のものでも美味しければ受け入れようと思う日本人の寛容さは大きな美徳だと思う。

日本を訪れる外国人が衝撃を受けるものの一つに、挙式用に建てられた「俄か教会」がある。

儀式という人生の節目宣言をいちいちやらなくても良いとなると、確かに結婚・離婚を繰り返すのも至って簡単なことになるのだろう。

300キロカロリーの動作をもっと具体的に分析すると、まず彼女はゴミを捨てねばならぬということを大声で宣言し、そのゴミを必要以上の力を込めて派手に圧縮しながら立ち上がり、立ち上がったついでに目に入った私や夫のところを経由してお喋りをし、その間ずっと手に持ったゴミをがさがさと弄び続け、お喋りの途中で自分がゴミを捨てに行こうとしていたことを思い出し、猫の尻尾を踏みつつ(なぜか猫を叱咤し)ゴミ箱に向かう時点で居間に置いてあるソファーに派手に体を体当たりさせ(前をよく見て歩かない)、そこで手にしていたゴミを床に落とし、拾うついでにまた目に入った細かいゴミを採取し、やっとそれらをまとめてゴミ箱へ、という経過を辿るような人なのだ。

エジプト人達は自分達で飼っていた猫が何らかの経緯で隣町に行ってしまったりすると、取り返すために戦争までしたといわれている。

どんなに尽くしてあげても相応するような見返りは決して期待できないし、時として人間の行動をアホにする

海外暮らしが長いので、モードの視点が日本ではなく周辺に見る欧米の人達に置かれてしまっている部分は確かに自分の中にあると思う。

気候や社会的事情上、ブラジルはイタリアよりも装いで自分を演出するのが難しい国なので、その人が美しいかどうかはその人自身の醸すオーラ次第。

それとまず何よりも、私が持っていたような変な自負心や無頓着さというのが曲者なのだ。あの時、あのジプシーオヤジに謝罪されなかったら、私はどんどん裸の王様ミスボラシバージョン道を突き進んでいた可能性がある。

「イタリアでこんな男達、俺、見かけたことないよ……」

そんなオーラをちょっとでも発生させた日には、嫉妬心を焚き付けられたそれぞれの妻からどんな恐ろしい制裁を下されるかわかったものではない。

「どうして日本の男性はこんな胡散臭い男どもを参考にしたがるのだろう……

でも私が思うに、イタリア男から「女性のパワー」というローマ時代から受け継がれる伝統的背景を排除したら、その魅力も逆に半減されてしまうのではないだろう

イタリア男の本当の素敵さというのは、楽をして真似できるものではないと私は思う

自分の国が周りからそう見られているという自覚もあるだけに、現実とのギャップには彼らもかなり悩ませられ続けていると思うのだが、そんなイタリア人がいよいよ本格的に意気消沈し、どこかでエネルギー補給しなきゃもうやっていけないなと思い立った時に、元気を与えてくれる理想の国としてイメージするのがカリブ海の島々やブラジルといった、ラテンとアフロ文化の混在した南米の国々だ

疲れを知らないブラジル人は日本人のような基本虚弱体質な人種の体力を慮ることはできない

日本を出発してから何十時間経ったかわからない。やっとコンサートが終わって朝の3時に遂にベッドへ横たわることができた私達は意識を失う勢いで寝込んでいたが、マルシアはその4時間後、朝の7時に会社へ出勤して行った

味覚を分かち合うということは、片言の言葉で何かを表現するよりも相手に自分の心の開放を率直に伝える効果があり、信頼度も高くなる

全く同じ内容の旅なのに、食に対する構え一つで、人によっては随分その質も変わっ

私は林芙美子の「放浪記」を読むと無性に茹で卵が食べたくてたまらなくなるし、その他にも第二次大戦後の混乱期の日本文学作品には読んでいるうちにお腹を空かせられるものが沢山ある。漫画「はだしのゲン」なんて読んだ日には米粒一つですら感涙するくらい美味しく感じられる

恐らくこういった西欧の国の人々には、なぜに「おしん」が様々な苦労に直面してもそれらを回避せずにじっと耐えて前へ突き進もうとするのかが理解できなかったのかもしれない

ましてや「おしん」を生んだ日本人は茶道や禅宗、武士道などの習わしにより人間たるや容易に感情的になるものではないという意識を潜在意識下に持っている人種だ

これが「おしん」を見ても感情移入できなかった西欧の人々だとどういうことになるかというと、例えば映画「ゴッドファーザー」の中で、マイケル・コルレオーネの妹であるコニーが夫に対してヒステリーを起こすシーンがあるのだが、あの壮絶な有り様を思い浮かべて頂けるとわかりやすいのではないだろうか

私の夫も含めて、イタリア人というのは何かと大袈裟な人種だ。画鋲を踏んだだけで救急車を呼ぶ人もいるし、日常生活で何か腑に落ちないことがあればすぐに裁判だ

た。「あんた達、どうかしてるわよ!! ゼンも程々にするべきよ!」と

「あなた達は本当に素晴しい。私達イタリア人には、とてもあなた達のマネはできない。でも、苦しい時には暴れたり泣いたりしてもいいとワシは思うんだよ。あんたも我慢しないで泣きたい時には泣いていいんだよ

けれどどんなものの宣伝であっても、そこには映像の美しさや、やたらとセクシーな美女を起用するなどといった、いちいち凝った演出をする傾向にあるのがイタリアのCMの特徴とも言える。

結果的に果たしてどれだけのGEOXが売れたのかは知らないが、私には、ここまで強烈なイタリア人の足の臭さをできれば嗅がずに済む人生を送りたいな、と思わせる効果があった

勉強というものの表面だけを舐めてその味を覚えるのではなく、何度も咀嚼して胃に流し込んで自分の体の栄養素としなければならないこの教育方法は、所謂心から勉強を愛する人間すら生み出す場合もある

まず何よりも、ご飯を全くゆっくり味わうことが許されないディスカッションはできれば私も息子と同じく避けたいと言うと、「だいたい日本の人達はディスカッションしなさすぎだよ! 誰かがヘンな意見を言っても『へえ~そうなんですかあ~』とか受け入れちゃって、そこでどうして『それは馬鹿げてるよ!』とか言わないんだい!? なんで言い争うことを楽しいと思わないんだい?」と声を上げる。

でも、そんな私の脳味噌もイタリア人達が集うテーブルでは知らぬ間にディスカッション姿勢にコードチェンジされてしまうらしい。いろんな人に「ヤマザキさん、なんでイタリア語になるとそんなに声が低くなって攻撃的な感じになるんですか?」と言われるが、多分イタリア語を話さなければならない状況下に置かれた途端、頭が自然にディスカッション受け入れモードになってしまうのだろう

口頭試問の大きなコツは、間違った意見であってもそれをいかに悠々と、自分の意見として言葉を優雅に操れるかということにあると思う

スピーチが上手い人といえば私はまずオバマ大統領が思い浮かぶ

確かに自己アピール力やスピーチ力というのは人に自分の思うことをどうしても伝えたい時には大切だと思う。でも考えてみれば、それと同じくらい相手が何を言わんとしているのかを理解しようと努める日本人的会話術も大切だと思う

海外の人がやたらと日本の電化製品を特別視していたのは、単なる合理的な代物に自分達の発想では思い浮かばないようなファンタジーが駆使されているからなのだと思う。

そんなある日、私は近所の子供がでっかい紙袋に大きなラジカセを入れて、そこに接続したイヤホンを耳に装着した状態でにこにこ歩いているのを目撃した。

1990年って言ったら、日本は間近に迫ったバブルの崩壊を人々はまだ一抹も察する気配もなく、あっちこっちに派手なネオンが灯りまくって、皆ボディコンやら肩パッドのがっちり入ったスーツやらに身を包んでディスコなんかで夜も遊び放題、電気なんか湯水のように使って、まさにこの上なくお金の醍醐味を謳歌していた時代だったはずだ……。

例えばアメリカへ越してくる前に私達が住んでいたポルトガルでは、田舎等に行くと未だに車の代わりにロバに荷物を積んで移動する人達もいる。

それもたまに夕食時や就寝時など、電気がないと本当に困る時間帯に停電になるのだが、私がホームステイしていた家族は計画停電もすっかり板についていて、電気がないならないで仕方ないよとお腹が空いていても皆文句も言わずに外へぶらぶらと繰り出し、月明かりの下で夕涼みをしたり楽器を演奏したりしてその場を普通に凌いでいた。

それでもこのアーミッシュの人達は普通に子孫を作って家族を形成し、テレビや携帯、PCがなくても、自給自足を営む傍らでお喋りを楽しんだり本を沢山読んだりしてそれなりに幸せに暮らしている。

中に入っていたのは、仏像の浮彫だった。

しかし私は「マリの趣味って難しい」という言葉を聞いて、自分の嗜好が彼らに一体どう解釈されているのかがとても気になった。

トウガラシに及んでは、これはローマ時代の男根崇拝が進化した形状の魔除けであり、これをぶら下げていると悪いことは起きないという謂れがあるので縁起がいいと思って通常サイズよりちょっと大きめのやつを選んできたのだが、二人には「こんなの人に見られたら恥ずかしいよ!」なんて言われる始末。

そう言えば、かつてブラジルのアマゾンに旅した時も、土産物屋で何時間も吟味して選んで買ってきた物が、配った人全てに喜ばれなかったことがある。

まず、ピラニアの剝製大・中・小。

外国人には皆同じにしか見えない平たい顔の日本人それぞれの個性をきちんと識別し、それぞれに似合った髪型に丁寧にアレンジしてくれる日本の美容師達。

日本の場合、多くの欧米人に共通して気が付くことの一つに日本人の歯というのがある。

日本人では歯を全部見せる勢いの笑顔で写真に収まる人は滅多にいない。

でも彼らは、本当に貧しすぎない限りは歯に対して多少の借金をしてでも並々ならぬケアを注ぐのだ。

どっちにしても世界における美的基準が著しくグローバル化している現状を考えると、あと10年もすれば日本でも審美歯科へ行くことはかなり当たり前になり、日本人の歯の美しさは欧米並みになるのではないだろうか。

夫は額に冷や汗を浮かべてネットで急遽野球のルールを調べて私と一緒に恐る恐る観戦に挑んだのだが、人生初めての野球観戦を超デラックススイートルームで、しかもオーナーと一緒にするというのははっきり言って無謀極まりない行為だった。

野球が定着しなかったヨーロッパには野球を理解できないという人が実は多い。

だが先だってのようにスポーツ観戦が一種の外交の役割を成す場合など、相手の愛するスポーツを理解できないような態度を示すのはタブーな場合もあるのだと実感した。

今回のなでしこジャパンのワールドカップにおける勝利にしても同じことが言えると思うが、単なる勝敗を競う目的だけでなく、自分が一生懸命になることが誰かのためになるのだという自覚を持って動く人間は、太宰の「走れメロス」じゃないけどやっぱり人を心底から感動させるのだ。

しゃがんだ時のあの疲れた筋肉が収縮される素晴しい感覚をこの人達は知らないで生きているのかと思うと逆に不思議でならないが、とにかく彼らの生活習慣上存在しない動作なのだから仕方ない。

日本人には他のアジアの人々よりも、周りの人々に迷惑にならないようにとか、周りに恥ずかしくない躾を心掛ける欧米の人達のマナーというものがしっくり受け止められる、その基本的受け皿が元々あったのだろう。

でも今では日本においても希少になってきたアジア人的緩いワイルドさを自分的にも失いたくはないと思う。

当時子供がよく見ていた名作劇場などのアニメーションも考えてみればほとんどが海外の児童文学を元にしたものだから、オランダがどこにあるのか全く見当もつかない田舎の子供ですら「フランダースの犬」を見ることで登場人物の履いている木靴や水車といったものが特徴の国の存在を知り、ネロ少年が憧れていたルーベンスの絵画にまで親しむことができた。

私は日本ほど世界のことを様々な視点から捉えた番組を沢山電波に乗せている国もそうないのではないかと思う。

昨今の日本人は旅行意欲が以前ほど旺盛ではないと言うが、もしかするとそれにはこんなメディアの影響も関与しているのではないかと思う。

しかしその反面で沢山の月日と労力と体力を費やしてその番組が撮影されたのだという実情を全く推し量ることをしなかった私は、この鉄道の旅で初っ端からかなり現実的でシビアな展開に翻弄される顚末となった。

旅中もドキュメンタリーの中で見覚えのあるシーンに遭遇してもそこに気持ちを盛り上げる感動的なBGMが流れるわけでもない。

砂漠と岩に覆われた、それほど世界の情報も多くは届いていそうにないような多宗教民族が入り交じるそんな土地で、まさか東北の地震を気遣う言葉を掛けてくれる人がいるなんて想像もしなかったからだ。

チケット入手の困難さや高山病の恐ろしさなど、確かに思いがけない事実も沢山この旅には盛り込まれていたが、テレビでは知ることのできない生々しく温かい感動も実は沢山あるわけで、これらはやはり番組の情報からだけでは得られなかったメリットでもあり、どんな苦労にも代えられない。

長く鎖国が続いたからなのか、孤立意識を持ってしまいがちな島国だからなのか知らないが、とにかく日本の世界の旅番組やドキュメンタリーというのは格別の質だと思う。

話を聞くと、そのウィルソンという青年は少し前にとあるルートでプレステ用のサッカーゲームを調達したのだが、日本製なので説明書も全て日本語で書かれていて使い方が今一つ把握できていないと言う。

イタリアでも南米一治安がいいと言われるキューバでもアジアのリゾートでも、私自身普通の場所で危険な目に遭った経験が何度かあるので、ブラジルだから犯罪国だと騒ぎたてるのも何となく納得がいかないし、自分の国である日本ですら、昨今では平和の仮面を被ったちょっとした犯罪国ではないかと私は思っている。

このオレオレ詐欺の話を外国人にすると皆一様にびっくりする。いくら親が年を取っていても、息子じゃないということは声や喋り方の違いでわかるはずだ、というのが彼らの腑に落ちない理由なのだが、確かに毎日最低一回は息子と連絡を取り合っているうちのイタリアの実家(特に姑)にはどう考えてもオレオレ詐欺は通用しない。これはまさしく親子関係が疎遠になりがちな日本だから成立する犯罪であって、家族がしょっちゅう電話だ何だで繫がっているような国では絶対に有り得ない犯罪の一つだ

「してくれないかな?」とか「そうだね」といったような、インタビューアーに対して旧知の友達のようなこの恐ろしくフランクな口調は、今や日本では各メディアにおける外国人吹き替え専用の言語として、こういう風にしなくてはならないという暗黙の規則になってしまっているのだろうか?

実は先日、とある編集者が私との対談をテープから起こした原稿を確認してほしいと送ってきたのだが、それを見た私は思わず固まった。その編集者によって文字にまとめられた私の口調の横柄さたるや、外国人の吹き替えどころの騒ぎではない。

しかも彼女の発した「頼りがいのある」という日本では女性への形容として滅多に耳にしない表現に、その場にいた日本の男性達は思わず消化不良を起こしかけていた。

でも、私は一連のそのやりとりが終わったあとに、自分でも「いきなりシングルマザーを嫁にもらうのは付随してくる問題も踏まえると本当にエネルギーのいることだから、日本のような社会ではなかなか勇気のいることだし、それに私も別に結婚したいわけではないから心配しなくていいんだ」と彼女の憤りをなんとか中和させようと試みた。

その時、腕にDEATHのタトゥーの甥っ子が「俺達なんか、逆にハードル高そうな女連れて歩いた方が男の格が上がるってもんだけどね」と口を挟んできた

デンマークの女達はだから付き合った男を家に呼び、どれだけ女や男ということを意識せずに、人間として一緒にいて楽しいかどうかというスクリーニングを、彼らの姿勢を通じてするのかもしれない。

ダマスカスの街は確かに引っ越してきた当初からやたらと女性用の下着屋の多い街だなあとは思ったが、そこに売られている下着というのも実際半端ないデザインのものなのだ。

服を着ていても脱いだ時の様子というのがすでに想像できてしまう感じだし、彼女達も裸は美しいギリシャの女神の彫刻を目の当たりにした時と同じように目で愛でるもの、と思っているところがある。

ポルトガルもそれなりに女性も男性と同じ足並みで社会に進出してはいるが、どこかで「お嫁さんになる」イコール「男性に養ってもらう」という強い概念が根を下ろしている。

%それにしても、日本だけが世界ではないと親から言われて育ち、実際自分でも窮屈さを感じて早くから日本との距離を置いてきた私だが、まさか時間の経過とともにこんなに様々な日本の味わい深さを感じられるようになる日がくるとは思ってもみなかった。

Written with MyEditor and posted with するぷろ for iOS(ブログエディタ).

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