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【本・映画】ユタと不思議な仲間たち:大人になって読み直してみると…

ユタとふしぎな仲間たち(新潮文庫) Kindle版 三浦 哲郎

ぼくはこれまで、人の同情を買うような態度はいちども取ったことがなかったと思っている。だから、クルミ先生がぼくをからかっているのではなく、いたわってくれているのだとしても、それがかえって、ぼくには少々迷惑なのだ。

うんざりしたといえば、初めて村の分教場をみたときも、これから毎日こんなところへ通うのかと、正直いって、うんざりした。

ぼくは、すっかり気が抜けてしまって、ろくに勉強もしなくなった。

「坊がそんなに眠たいのは、そりゃ坊に仲間がいねえからじゃよ」

子どもには、勉強するときにも遊ぶときにも、ちょうどいい相手になるような友だちが必要なもんじゃ。

すると、寅吉じいさんは、ごほんごほんと、つづけさまに咳をしてから、この村に限らず、いなかの人間というものは、よそ者に対してそう簡単には打ち解けてくれないものなのだといった。

「だけど、坊は、友だちはほしいが村の子どもらは相手にしてくれんというて、嘆いていたではないかのう」

寅吉じいさんの説によれば、神様とか、ほとけ様とか、人間の霊魂とか妖怪とかは、実際に存在すると思えば存在するし、存在しないと思えば存在しない、つまりその人の気持ちしだいで、存在したり、しなかったりするものだということであった。

ところが、だれもが予想もしなかったあのような事故が起こって以来、正直いってぼくの心の底の方には、人間の生み出した科学をはるかに超越した、科学では解明できない一つの世界、科学の常識では信じられないようなことが容易に起こり得る一つの世界──そんな世界の存在をひそかに信じたくなるような気持ちが芽生えていたのだ。

つまりぼくは、お父さんのタンカー事故で、容易に信じられることよりも、むしろとても信じられないようなことをこそ、信じなければならないという気持ちになっていたのだ。

「あなたが意気地なしでなくなってくれるんだったら、何日だって離れのお部屋をとってあげるわ」

けれども、それと同時に、そんなにも懐かしい東京を遠く離れて、こんないなかでしょんぼりしている自分が急になさけなくなり、ぼくはますます胸がむしゃくしゃしてきた。

けれども、大人にはとても図々しいところがあって、平気なふりをするのがうまいから、油断がならない。ぼくは、だまされないぞ、と警戒しながら、 「卑怯だよ、おじいちゃん、こんなところに隠れてるなんて」  といった。

東京にいるころは、すこしぐらい空腹だと思っても、腹が鳴ることなどほとんどなかったのに、この村で暮らすようになってから、澄んだ空気を吸うせいか、それとも例の眠り薬のおかげでよく眠るせいか、空腹になると、みっともないほどに腹がぐうぐう鳴るのである。

ぼくは、がっかりした。初めて会った居酒屋のおかみさんに、ひと目でぼくのことがわかったのは、ぼくもやっと村の子どもの一人として認められてきた証拠だと思っていたのに、これでは逆に、自分が相変わらずよそ者だと思われている証拠にしかならない。

きこえるのは、遠い谷川の響きと、蛙の合唱だけである。

それでも、こうしてせっかく会いにきたのだから、やはり座敷わらしには出てきてもらいたかった。たとえ、その瞬間に気を失ってしまったとしても、あとで分教場の仲間たちに、ぼくは座敷わらしに会ってきたぞと叫んでやるのだ。みんなはびっくりするにちがいない。そうして、もうだれもぼくのことをモヤシなどとは呼ばなくなるだろう。

いやにほっそりしているけれども、まるで大人の脛みたいな──そう思って、すぐ、ああ、これはお父さんの足だと、ぼくは思った。

おめえの心の底には、本物の勇気がある。それは、おめえのオドから受けついだ勇気だ。だけど、おめえはまだそれに気がついていねえ。

おめえが、自分に勇気がねえと思ってるから、いつまでも弱虫でいるみてえにな

ユタっていわれると、なんだかみんなに裏切り者っていわれてるみたいな気がして」

男の子は、たまには親から離れて、ひとりぽっちで寝てみないとな。どうじゃ、いい気持ちじゃろう。これからも、ときどき離れに泊まるこっちゃ。度胸がつくぞ」

離れにひとりで平気で泊まれるようになるころには、座敷わらしでなくとも、ちゃんとした人間の友だちがきっと出来とる。

「そりゃあ、おまえさんはおれたちの仲間だもの」

「もういいかげんにして、ぼくのことを東京の人というのはよしてくれよ。ぼくはもう、この村の人間なんだから

「当ててみようか。きみはさっきまで、山の菜種畑で小夜ちゃんの手伝いをしてきたんだろう」

ぼくは、この村にきてから、こんなに自信に満ちた口調でだれかにものを語ったことが、いちどでもあっただろうか。

これは、ペドロの手柄なのだ。ペドロの予言が当たったのだ。

要するに、ぼくは村の仲間として、みんなに認められてきたわけである。

「水臭えな。おれたちは仲間じゃねえか。これからだって、なにかおめえの役に立つことがあったら、遠慮なしに声をかけてくれよ。

「大丈夫だよ。ぼくは頑張るからさ。きみたちについていけるように、自分で体を鍛えるからさ。約束するよ

 ぼくの顔も手足も、すっかり日焼けして黒光りしているものだから、じいさんにはぼくとよく似たよその子どもを見るような気がしたのだ。

お母さんは、噂のことはちゃんと知っていながら、ぼくにはなにもいわずにいるのだ。

もしかしたら、とぼくは思った。お母さんはぼくがこの村にきてから、東京では考えもしなかったなにかに目ざめつつあることに、気がついているのかもしれない。そうして、ぼくの少年としての変貌ぶりを、寛大な目で見守ってくれているのかもしれない。もしそうならば、ぼくはお母さんに感謝して、その期待にこたえられるようますます努力しなくてはいけない。

「いや、おれたちはなにもおめえに教えやしない。すべておめえの努力が実を結んだのさ。まず、よかった」

ぼくは、ペドロの仲間たちに会えなくなっても、もう淋しい思いをすることがなかった。ぼくが分教場のだれかと遊んでいると、みんなの方から仲間に入れてくれといって集まってくるようになったからだ。

ぼくはいつのまにか、なんだか知らないけれども頼まれたら引き受けてやろうという、自分でもなにかはらはらするほどの自信に溢れていたのである。

ぼくのことは心配しないでくれよ。ぼくはもう、ひとりで大丈夫だから」 「それを聞いて、安心したぜ」


これ、主人公はユタ。ユダと間違われるのがいや、等と書かれている。一方の座敷童のリーダー(?)はペドロ。ぺんぺん草の泥沼で、ペン泥なんだけど、ペドロ。

ユダとペテロですよね。(ペテロ=ペドロ)

キリストに相当する人はいないと思いますが、この二人の名前はなにを意味してるのか…

教えて!誰か偉い人。

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