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誰も誰にも何も言おうとしてない・・・のか

森達也の本です。(と、唐突に・・・)偉そうに言うほど読んでなくて、たぶん三冊目で、有名なあの本も読んでなければ、あの映画も見てないのですが・・・今日はこれ!

森達也の本で最初に手にしたのは、

これは、おもしろかった!ジュブナイルのコーナーの端っこに、このよりみちパン!セのコーナーがあって、ぱらぱらと見て、そのまま読みながらレジに持って行った本。

ちなみに、このよりみちパンセは、ある意味(ある分野で?)際だった人が、子供に、単純な道徳とはほど遠いことを伝えようとするシリーズで・・・西原理恵子が「金がすべてだ」というかと思えば、養老孟司が「馬鹿な大人にならない方法」を伝えたり・・・

その中で、この本で森達也は、(誰かの視点で、あるいは誰かの意図で)切り取られたメディアだけを見て、ステレオタイプに物事を受け止める(考えない)のはよそう、と子供たちに訴えています。すべてを自分で見ることはできなくても、ちょっと立ち止まって考えてみようよ、と。

それから、

これは、タイトルのように、童話・寓話の主人公が現実の社会・・・(日本?)にいたなら、どうなったかを、おもしろく・・・まあ、社会風刺につなげているような話ですね。

 

で、この本 「誰が誰に何を言っているの?」です。この本では、町中にあふれる、危険、犯罪、監視、不審者、110番、などなどの言葉にあふれたポスターや看板などのスナップ写真を基に、この国が、この国のメディアが、何を伝えようとしているのか(してないのか)、どこに向かおうとしているのか(どこに国民を連れて行こうとしているのか)、に関して警鐘を鳴らしています。

読み始めたときは、こんなポスターなどの写真で連載が続くのかな?と、(すでに単行本になっているにもかかわらず)いらぬ心配をしていたのですが、男性の小用後に水を流すボタンを押すかどうか、と言う自虐史観(?自虐ネタ)から、社会や犯罪の話(ネタ)や、国家・戦争の話(ネタ)に広がっていく展開は見事とも言えます。

この本の中での(あるいは、すべての彼の活動の中での)森達也の立脚点は、ある意味明快。つまり、最初に紹介した本にある通り、メディアが送りつけてくる情報のみを鵜呑みにしないで、自分で考えてみようよ、です。殺人事件の数が毎年減ってきているにもかかわらず(これは、公的データを見ればわかる話で、自分で見てみようよ、と彼は言っています)、凶悪な事件が増えてきたかのようにことさらに報道するメディアと、同じく凶悪犯罪が実は減ってきているにもかかわらず、さも、危険が、敵が、君のそばにいる、と不安をあおる組織(国ほかの団体)は、国民に何を植え付けようとしているのか?北朝鮮にしろ、(米国にとっての)イラクにしろ、”仮想”敵国をことさらに敵対視し、孤立化させることがどういうことにつながるか、過去を見ればわかる話なのに、なぜ、誰もそれを思い出さないのか?・・・ものの考え方はいろいろですし、彼の視点がすべて正しいなんて言いませんが(つまり、押しつけたりしませんが)、彼は、この本の中でも、街角のポスターや監視カメラ等々を取り上げながら、一貫して、「立ち止まって、自分で考えてみようよ」と言っています。

 

考えを押しつけない、自分で考えてみよう、と言うことに関しての彼の提案(・・・とも言える部分の引用:一部略、または改)。

 

シッタータにとって、真理への道は、満ち足りた生活からも、死ぬか生きるかの苦行からも得られなかった。ならば、中庸(引用者注;中立ではない)にあるはずだ。・・・“ベルトルッチの映画『リトル・ブッダ』でこの場面は、「張りすぎた弦は切れてしまい、緩みすぎた弦は良い音が出ない」という台詞で表されている”

 

中立とは2つの点から等距離にあることを意味する・・・でもそこで考えねばならない。その2つの点の位置は誰が決めたのかを。

誰かが座標軸を決めねばならない。中立の位置はその座標軸によって変わる。つまり絶対的な中立など人には実現できない。それは神の領域だ。

 

ね?難しくないでしょ?

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