懐かしい・・・そして、ちょっとだけ素朴な元気をもらえるような映画でした。
リスボン物語 ヴィム・ヴェンダースの95年の映画です。ちょうど、と言うこともないのですが、98年と99年にポルトガルに行って、リスボン、そして作中で使われているマドレデウスの曲に触れることがあったので、そういう意味でも懐かしい・・・
リスボン物語:Movie:Wim Wenders Unoffiial Site
懐かしい・・・のですが、懐かしいのは、たまたま自分が行ったことがあるから、だけではなくて、この映画が、映画についての映画、映画の原点を伝えようとした映画だからかもしれません。
録音技師フィリップ・ヴィンターは親友の映画監督フリッツから届いた絵はがきを見つける。「SOS、サイレントでは続けられなくなった。録音機材をもってリスボンに来てくれ」とある。
ドイツから車でポルトガルを目指すのですが、途中・・・EU統合後で国境も無くなり、通貨も、そしてある意味文化も国境を失いつつある様子が描かれていますが、ピレネーを越えればそこはアフリカ、と言ったのはナポレオンですが、そのピレネーを越えたスペインよりまだ遠いのですから・・・ポルトガルは、EUとは言えかなり違った欧州の姿を残しているように思いいます(僕が)。それだけに、国境の手前で、車がパンクして、電話も通じず立ち往生したヴィンターの姿は、コミカルにではありますが、“まだ、こんなのも残っているよ”というのを伝えようとしているのかもしれません。
さて、行ってみると、フリッツは部屋にいなくて会えない。街のさまざまな音を録音しているうちに、ヴィンターはマドレデウスの音に出会う。これも、フリッツの映画のために作っている音楽なのに、フリッツはいない・・・
このマドレデウスは、【神の母】という意味のポルトガル出身で、ファドにとどまらずあるいはファドをベースにした、様々なジャンルをミックスし、とても心に響く歌声を聞かせてくれるバンドです。
このマドレデウス、そしてボーカルの女性テレーザ(映画中でもテレーザ)との交流も、アルファマらしい、とでも言うか不思議な優しさを感じさせてくれますが、テレーザはヴィンターに部屋の鍵を預けてツアーに出て行く・・・
・・・盛り上がりがあるんだか無いんだか?の展開の中、とうとうヴィンターはフリッツを見つけます。
フリッツのSOSとは・・・
映画が生まれたときのような、純粋な映画を撮りたい。そのためには、“人(=自分)の目で見て撮影”しても、撮影された映像を“人が見ても”だめで、純粋さが失われてしまう!というものでした。
分かる、分かる~ 写真撮ってても、当然ながらすべてを切り取ることは出来ないし、どうしても意図が見え見えになっちゃうし、何より、きれいな写真を撮るには、こういう(教科書的な)構図で、こういう露出で、こういうシャッタースピードで、って考えてしまうんですよ。いや、そりゃ、レベルというかは全然違うのは当然だけど、・・・映画の撮影の技術が進んだり、CGなんかの技術が発達すればするほど・・・牽強付会すれば、ヨーロッパがEU化すればするほど、と言うような感覚で、なんだか、本末転倒的な、なんか違う、って気がしてくる。その気持ちも、CGや3Dを売り物にした映画を見ると、分かるような気がしてくるんですよ。
しかし、ヴィンターはフリッツに、それは(多分、分かるんだけど)違う、と訴える。この時、ヴィンターが録音技師で、自然の音を録音もするんだけど、映像に音を当てるときには、人工的に作り出した擬音(?)を使って、よりそれらしい音を作り出している立場だからこその説得力というのがあって・・・映画を撮ろうよ、自分がワクワクするようなものを撮ろうよ、それが映画だよ!って言ってくれるんですね。
そうそう、映画って・・・畢竟、自分が見せたいものを人に見せるためのツールなんですよ。
・・・と、論と言うまでも無いような映画論を明る~く示してくれる、そういう意味で元気をもらえるエンディングです。
映画論、映画の原点、ヴェンダースの原点、と言う言葉で表される映画ですが、それでも(あるいは、だからこそ)、”リスボン市がモチーフの映画を、という同市の依頼にヴィム・ヴェンダース監督が応じた作品”(リスボンのドキュメンタリーを撮るはずが、リスボンのドキュメンタリーを撮る人の話を撮っちゃった???)ですので・・・アルファマ地区の映像がすごく懐かしくて。街並みも、狭い路地も、そしてあの、壁すれすれに走っていく路面電車も!
リスボンか・・・何もかも皆懐かしい・・・
それに、それに、マドレデウスの音楽も、妙に懐かしく切なく響くんですよね。
映画とは関係ないけれど、09年に行ったときの写真です。興味があれば、ぜひどうぞ。
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